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鬼滅の刃はパクリ?つまらない?なぜそう言われているのか実際の声まとめ

社会現象とまで言われた『鬼滅の刃』。
映画は記録的ヒット、グッズは爆売れ、アニメは神作画で絶賛…。そんな大人気作品にもかかわらず、「正直つまらなかった」「どこかで見た設定ばかりじゃない?」という声が、ネットでは今も後を絶ちません。

今回は、そんな否定的な意見に注目して、
「なぜ“鬼滅の刃はつまらない”と言われるのか?」
「本当にパクリ要素があるのか?」
気になるウワサを一つずつ掘り下げてみます。

話題作ゆえに賛否が分かれるのは当然。でも、モヤっとしている人がいるのもまた事実。この記事ではなぜ鬼滅の刃がパクリ・つまらないと言われているのか実際の声をまとめました!

鬼滅の刃が「つまらない」と言われる理由

『鬼滅の刃』に対して「つまらない」と感じる人々の意見には、以下のようなものがあります。

・主人公・炭治郎の性格が一貫していない
・ストーリーの構造が単純で深みがない
・キャラクターの掘り下げが不足している
・バトルシーンの描写が分かりづらい
・感動シーンの演出が唐突で説得力に欠ける

主人公・炭治郎の性格が一貫していない

一部の読者から、「炭治郎の性格がブレていて共感しにくい」という声が上がっています。
確かに炭治郎は基本的には優しい少年として描かれていますが、場面によってはその優しさが極端だったり、逆に感情の爆発が激しかったりと、人によっては“人間味”よりも“矛盾”に感じてしまうことがあるようです。

たとえば、以下のような場面が指摘されています。

鬼に対して異様なまでに優しい一方で…

炭治郎は鬼との戦いにおいて、命がけで倒した相手に対しても涙を流す場面が多く見られます。とくに累(るい)との戦闘後、「君もつらかったんだね」と同情する描写は印象的です。

しかしネット上では「鬼に同情するのはいいが、人を食い殺した加害者だぞ?」「戦ってる最中は容赦ないのに、終わった後に涙を流されても違和感がある」との声も見られます。

このように、戦闘時には容赦なく首を斬っているのに、勝った途端に哀れむという行動が、「演出としてわざとらしい」「ご都合主義的」と感じられてしまうようです。

怒りのスイッチが不自然?

また、炭治郎は普段は妹・禰豆子や仲間想いの穏やかな性格として描かれていますが、ある場面では鬼に対して異様なほど激昂することがあります。
代表的なのが、上弦の陸・妓夫太郎戦での「この人でなし!」という叫び。

この台詞に対しては「唐突すぎて怖かった」「普段の炭治郎の口調からは違和感がある」といった反応も。
「人間性を尊重するはずの彼が、急に悪罵を投げるのはキャラ崩壊では?」と冷めた目で見る読者もいました。

「聖人すぎてリアリティがない」という意見も

また別の観点では、「炭治郎は常に“正しすぎる”」という点が逆に引っかかるという声もあります。
戦いに迷いがない、悪に怒り、仲間を守り、妹を想い続ける…。これらは美徳のように描かれますが、「苦悩や葛藤が少なく、型にハマった理想像でしかない」と感じる読者もいます。

こうした意見に共通しているのは、「人間味の描写が薄い」「行動や言動に説得力が足りない」といった、キャラ造形への疑問です。
人気の高いキャラクターである一方で、一定数の読者がその表現に“違和感”を覚えていることもまた事実といえるでしょう。

ストーリーの構造が単純で深みがない

『鬼滅の刃』は、ストーリーの分かりやすさ・王道展開こそが魅力とされる一方で、「構成が単調」「世界観に厚みがない」と感じる人も少なくありません。

とくに多かったのが、「敵と味方の構図があまりにも一直線すぎる」「鬼殺隊 vs 鬼という図式の中で他勢力や価値観が描かれないため、深みや広がりに欠ける」という意見です。

鬼殺隊 vs 鬼、という構図の単純さ

物語の基本構造は「鬼によって家族を失った少年が、鬼を倒して妹を人間に戻すために戦う」という復讐+救済の物語です。
その軸が明確なのは良い点ですが、読者によっては「その一本道すぎる構成が退屈」と感じられたようです。

「鬼殺隊しか対抗組織がない世界観に説得力がない。もっと複雑な勢力関係があれば面白くなった」

たとえば、鬼を科学的に研究する政府機関や、共存を模索する団体などが存在してもよさそうな世界なのに、そのような“別視点”が一切出てこないことが、物語の厚みに欠ける原因とされていました。

鬼の存在と社会との関係が描かれない

鬼による被害が人々の間でどれほど認知されているのか、なぜ政府は鬼の存在を放置しているのか…といった“社会との関係性”がほとんど語られません。

「鬼があれだけ暴れているのに、街に警察も出てこないし、一般市民もすぐ忘れてる。リアリティがなさすぎる」

読者の中には「舞台設定が不安定」「ご都合主義に感じる」と違和感を覚える人もいたようです。世界観が和風ファンタジーであることを考慮しても、社会構造や他視点の描写が少ないことが“作り込みの浅さ”として感じられてしまうのは否めません。

キャラクター同士の関係性が薄い

鬼殺隊の隊士たちはそれぞれ個性的なキャラとして描かれていますが、彼らの関係性や背景が深く絡み合うような構成にはなっていません
キャラ同士のドラマが弱く、エピソードが「感動させたいがための装置」として見えるという意見もあります。

敵(鬼)の掘り下げも形式的?

敵キャラである鬼にも“人間だった頃の悲しい過去”が設定されているのですが、それが毎回「戦闘の終盤にフラッシュバックで入る」パターン化しているため、「ワンパターン」「感動を押しつけている」との批判もあります。

「毎回、敵が死んでから回想の流れで、展開が予想できてしまう」という声もあります。

世界の謎が広がらないまま終わる

鬼や無惨の起源、なぜ“呼吸”が力になるのかといった設定も深掘りされず、終盤にかけて「勢いで終わった」と感じた読者もいました。

「ラストまで“バトルと感動”で押し切った感じ。物語の裏側に広がるべき設定が少なかった」

キャラクターの掘り下げが弱い

『鬼滅の刃』には炭治郎、善逸、伊之助、柱たち、鬼たちなど、印象的なキャラクターが多く登場します。
しかしその一方で、「キャラが薄っぺらい」「設定が雑」「テンプレっぽくて感情移入できない」という声も少なくありません。

いくらキャラが立っていても、「なぜそういう性格なのか?」「どんな背景があるのか?」という描写が弱いと、“ただの見た目や口癖だけの記号”になってしまうのです。

キャラクターの動機や人生が見えてこない

主人公・炭治郎を除けば、多くのキャラが「最初から完成された状態」で登場するため、物語の中での変化や成長が乏しいと感じる読者もいます。

「“柱”たちの性格や過去は説明されるけど、それが物語全体の中で生きていない。自己完結している」

たとえば、不死川実弥(さねみ)の過去は重く感動的ですが、描写は限定的で、過去の回想と今の行動がつながって見えないという声もありました。

善逸・伊之助が“キャラ芸人”扱いされがち

善逸と伊之助は初登場から強烈なキャラクター性を持ち、物語のムードメーカーでもありますが、逆に「ギャグ要員」「うるさいだけ」「うざい」という評価もあります。

「善逸の“泣き喚く・寝て覚醒”のワンパターンがしんどい」
「伊之助はただ暴れてるだけの人に見える」

ファンにとっては「かわいい」「愛嬌がある」と感じられる一方で、繰り返しの多さ・成長の少なさが嫌悪感につながっている読者もいるようです。

柱の“キャラかぶり”と“背景の弱さ”

一見バラエティ豊かに見える“柱”たちも、それぞれの描写が断片的で「個性の押しつけ」に感じるとの声がありました。

「風柱と蛇柱のキャラ設定が似てて混乱する。過去の描き方も、あまりに簡単」
「“強いけど悲しい過去がある”というテンプレばかりで飽きる」

さらに、その多くが回想頼みで描かれるため、“活きたキャラ”というより、“設定集のキャラ”に見えるという意見も少なくありません。

バトル描写がわかりにくい

『鬼滅の刃』のバトルは、アニメでは非常に評価が高い一方で、原作漫画では「何が起きているのか分かりづらい」と感じる読者が一定数存在します。とくに戦闘描写において、技の効果や戦況の流れが視覚的に把握しにくいという点が指摘されています。

戦闘シーンでは「技名を叫ぶ」「キャラが飛び回る」「爆発的なエフェクトが舞う」など、勢いや迫力重視の演出が多く、コマごとの動きの繋がりが曖昧な場面も見受けられます。そのため、攻防の応酬や技の切り替えが整理されておらず、読者がどのような状況で戦っているのかを把握しづらくなることがあります。

また、「〇〇の呼吸・何ノ型」といった技の名前や流派が多数登場しますが、それぞれの技の特徴や効果が詳しく描かれないまま、次々と新しい型が出てくる構成になっており、結果的に「見た目は派手だが、何が起きているのかが伝わりにくい」という印象につながっています。

さらに、戦いの中に挿入される心理描写や回想シーンのタイミングがやや唐突なこともあり、戦闘の緊張感が中断されることで、テンポや臨場感が損なわれるケースもあります。とくに長期戦においては、セリフや心の声による説明が増えるため、画面の迫力と戦術的な描写が乖離してしまう場面が見られました。

視線誘導や空間の把握が難しい構図も複数あり、誰がどこで戦っているのかが見えにくいケースがある点も、戦闘の見づらさにつながっていると考えられます。

こうした傾向により、アニメ化によって動きや演出が補完された際には評価が一変し、「アニメでようやく内容がわかった」という感想が生まれることにもつながっています。つまり、漫画としての描写力とアニメ演出との間に、情報伝達の明瞭さという点でギャップがあったといえます。

感動シーンが唐突で説得力に欠ける

『鬼滅の刃』は「泣ける漫画」として広く知られ、多くの読者を感動させてきた作品ですが、その感動描写については「展開が急すぎる」「泣かせに来ているのが見えすぎてしまう」といった構成面での課題も指摘されています。

特に顕著なのが、「死」の扱いです。多くのキャラクターが戦いの中で命を落とし、その直後に過去の回想シーンが入ることで“哀しい過去を持っていた”ことが明かされます。こうした演出は一見ドラマチックではありますが、戦いの最中や終盤で急に語られるため、読者が感情移入する余地が少ないまま、涙を誘う流れに入ってしまう傾向があります。

また、主要人物のセリフやナレーションによって「この人は可哀そうだった」「この死には意味がある」といったメッセージが説明的に提示される場面も多く、感情を“体験する”のではなく“与えられる”印象を与えてしまう構成となっています。そのため、物語の流れや積み重ねによって自然に感動に至るというより、演出で感動させようとする“操作”感が強く出てしまい、物語のリアリティや説得力を損ねてしまう場面が見受けられます。

さらに、感動を生むための“型”が作品全体に繰り返されている点も問題視されています。たとえば、戦いの末に倒された鬼に対して、炭治郎が涙を流し、鬼の過去が描かれるという一連の流れは、物語の中盤以降、何度も繰り返されます。これは一定の型として安定した感動を与える手法ではありますが、読者によっては展開が予測可能となり、驚きや深い感動が薄れてしまうこともあります。

また、死や別れといった重いテーマが多いにもかかわらず、その後の処理や余韻が描かれず、次のエピソードへテンポよく移行するケースもあり、感動の持続性がないと感じられる場面もありました。物語全体の構成としてはテンポ重視である一方、感情の起伏や回収が短時間で処理されてしまうため、読者の中には「泣けるシーンなのに心に残らない」と感じる人も出てきます。

こうした構成上の問題により、『鬼滅の刃』の感動シーンは確かに強く心を揺さぶる瞬間がある一方で、シーンとしての“自然な流れ”や“積み重ね”の部分が不足し、感情の説得力に欠ける印象を残してしまうケースも見られました。

『鬼滅の刃』はジョジョのパクリ?と言われる2つの理由

1.「呼吸」を使った戦闘設定が酷似している

『鬼滅の刃』の戦闘スタイルの根幹をなすのが、「全集中の呼吸」。
これは呼吸法によって肉体能力を極限まで高め、鬼と戦う技術であり、鍛錬によって誰でも習得できるものです。各キャラクターは“水の呼吸”“雷の呼吸”など、個別の流派に分かれた技を持っています。

一方、『ジョジョの奇妙な冒険』の第1部・第2部では、「波紋」と呼ばれる技術が登場します。
こちらも呼吸を整えることで身体に特殊なエネルギーを生み出し、吸血鬼やゾンビのような存在と戦う力を得るもので、やはり訓練次第で誰でも扱える能力です。

どちらも「呼吸」を起点に力を発動する点や、技名がついている点、能力が“血統や才能”ではなく“修練”によって得られる構造である点などが酷似しており、読者によっては「発想が近すぎる」と感じるようです。

2.「柱」と「波紋使い」の構造、さらに「柱の男」の存在

『鬼滅の刃』の「柱」は、鬼殺隊の中でも最高位に位置する剣士たちで、それぞれが異なる呼吸法を極め、独自の戦闘スタイルを持っています。彼らは主人公を導き、ともに強大な敵と戦っていきます。

この構造は、『ジョジョ』第2部の「波紋使い」たちともよく似ています。リサリサやシーザーをはじめとした熟練の使い手たちが登場し、主人公ジョセフ・ジョースターを鍛え、共に戦います。それぞれに技や性格に特徴があり、「師弟関係」「チーム戦」の要素を含む点も一致します。

さらにややこしいのが、『ジョジョ』第2部に登場する敵キャラクターの名称が“柱の男(カーズ・ワムウ・エシディシ)”であること。
これは偶然かもしれませんが、「鬼滅の“柱”=味方」「ジョジョの“柱の男”=敵」と、対照的な立場で“柱”というキーワードが共通しているため、「ジョジョのオマージュでは?」と感じさせる一因となっています。

鬼滅の刃に対するネットの意見

鬼滅の刃に対するXの意見を紹介します。

まとめ

『鬼滅の刃』は、誰もが知る国民的ヒット作でありながら、実はさまざまな角度から“違和感”や“冷めた意見”も語られてきた作品です。

「つまらない」と言われる理由には、物語の構造の単純さやキャラクターの掘り下げの浅さ、戦闘描写のわかりづらさ、そして感動シーンの唐突さといった“構成面”への疑問が含まれています。読者の感情に強く訴える一方で、論理的に見ると粗が気になるという声が多かったのも印象的です。

また、「ジョジョのパクリでは?」という指摘についても、呼吸法を使った戦闘スタイルや、“柱”という用語の一致、敵・味方それぞれの立場の構図など、確かに類似点があることは否めません。ただし、それがすぐに“パクリ”と断定されるわけではなく、構成上の重なりや演出の文法が似ているからこそ生まれた印象とも言えます。

結局のところ、どんな人気作品でも賛否はつきものです。
特にここまで注目され、社会現象にまでなった『鬼滅の刃』であれば、期待も批判も大きくなって当然でしょう。今回紹介したような“つまらない”“パクリっぽい”と感じた人の意見は、作品を否定するためというより、「なんとなく引っかかっていた部分」を言語化した結果なのかもしれません。

物語に熱狂した人も、モヤっとしたまま最後まで読んだ人も、同じ作品に対して違う印象を抱くのは自然なことです。
大事なのは、それぞれの読み方や視点があってもいいと認めたうえで、作品をもう一度見つめ直すきっかけにすることではないでしょうか。

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